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原発の根っこ

(2011-05-21 21:22:35) 下一个
 
 私の父は、こんな大事故が起こっても、酔いながら、
 「原子力がなきゃ、やってけないぞ。
 こんなふうに、電灯の下で飯も食べられないじゃないか。
 反原発の連中も、反対反対って、電力をどうするってんだ。」
と、クダを巻く。
 私も母も妹も、なきゃないでなんとかやってくでしょ、命の方が大事だ、と思うのだけれど、酔っているときに何を言っても通じないので議論はしない。私たちが考える理屈とか損得とかと、父の考える必要性はどうやら土台からして違っているようなのだ。
 これはいったいどういうことなのだろう、と考えてみる。東電の宣伝活動の成果なのか?
 父が酔った際に出るその他の言葉を思い起こしてみると、日本のエネルギーがどうとか、燃料が永久にリサイクルできるって話はどうなったんだとか、最後に必ずなぜか、人間が宇宙で生活できる時代がどうとか、という話になる。
 これは、もしかしたら、科学の進歩に対する人間の飽くなき追求と信仰という問題なのだろうか。

 世間は、原発には利権があって、その甘い蜜を吸っている人達が手放さないのだと言う。金のなる木は簡単に枯らさないというわけだ。しかし、原子力への固執は、父の口調から想像しても、金銭的な損得勘定だけでは説明しきれないものがある。

20日の朝日新聞で、安斎育郎さんという大学教授のこんな話を読んだ。
 …そもそも、原子力産業は国家の意思なしにはスタートできません。原発は事故が起こった時の被害総額があまりに大きく、大量の使用済み燃料処理にかかる最終的なコストもはっきりしない。一般の企業がこんなリスクを背負うことは到底できず、産業化には「原発をつくる。一定限度以上のリスクは国が肩代わりする」という国策が前提となります。
「国がやる」ということから始まっているから、「やるのがいいのか、悪いのか」という話には、そもそもならない。「反原発」は即、反国家的行為とされます。…

 では、なぜリスクの大きさも最終的なコストもはっきりしないまま、日本は原子力産業を国策として推進しなければならなかったのだろう。

 もう何年も前、ふと、夫に、使用済み燃料の処理に苦慮しなきゃならない原子力発電所って、どうかと思う、どうしてそんなやっかいなものをわざわざ作るのかな、と問いかけたがある。そしたら、夫は、間髪入れず、そりゃ、核兵器のためでしょ、と答えた。すぐにどうこうしようという具体的な目的意識はないとしても、原子力発電所があるとないとでは、いざという時の備えとして、全然違うのだと。
 すると、原発を推進する動機には軍事的側面があるのだろうか?

 しかし一方で、こんな話を見つけた。国際問題アナリストの藤井厳喜という方のブログに書かれている話だ。
日本の愛国者のかなりの部分が、原発は日本のエネルギー自立に有効であると考え、原発推進にくみしているが、現実は全く逆である。

 藤井氏によると、アメリカを始めとする五大核兵器保有国は核独占を堅持するために、核拡散防止条約体制を整えた。日本はこの枠組みの中、「絶対に核武装をしない」という前提条件を受け入れた上で、原子力発電を許されている。だから、「原発は日本のエネルギー自立に全く役立たないばかりではなく、むしろ逆に、政治的力関係においてすら、日本を既存の核大国による秩序に隷属せしめるものなのである」、という要旨だ。
 後半部分の是非はさておいて、原発がこのような枠の中で大きな制限を設けられているならば、核兵器への転用の可能性は始めからないことが明らかである。
 すると、原発推進の国策に軍事的側面の動機を投影するのは、愛国者の実現不可能な幻想というわけだろうか。

 この文章の中で興味深く思ったのは、「エネルギー自立」という言葉だ。「日本の愛国者のかなりの部分が、原発を日本のエネルギー自立に有効であると考え」ているらしい。藤井氏のような国際政治的側面から論じるまでもなく、燃料であるウランを輸入し、廃棄物の処理も海外に委託せざるを得ない現状では、どっちみち「自立」なんてあり得ないんじゃないか。どうして原発が日本の「エネルギー自立」という動機に繋がるのだろう、と不思議に思った。

 などと、考えていたら、今日、たまたまつけたテレビのチャンネルで、国策として原子力が推進されてきた背景について、立花隆が語っていた。
週間ニュース新書
【検証!日本と原子力 “国策民営”の功罪】
~中曽根元総理が語る真実 田中角栄の狙い~
    田勢康弘 vs 立花 隆
 という番組である。
 (途中から見たので、中曽根元総理のインタビューはほとんど見逃してしまった。)
 鉄腕アトムという漫画があった。アトムの動力は原子力だ。妹の名はウラン。という話題が出た。私はこれをリアルタイムには見ていないけれど、アトムの元気さ、明るさ、人気の高さというイメージは容易に浮かぶ。この時代は原子力というのが、日本の未来を切り開く夢のエネルギーであったらしい。
 原子力以前に、電力そのものが文明の証しだったのかもしれない。(そういえば、昔「あかる~いナショナル、あかる~いナショナル…」というCMがあった。これは電力そのものを宣伝しているわけではないけれど、電気(電化製品)によって家中が明るくなり、今までにない新しい世界、新しい幸せが開けるのだというイメージをもたらしていた。)

 日本が戦争に負けたのは、資源と技術において劣っていたからで、一方で、戦後の復興を考えたとき、農業国では四流国として世界から取り残される、新しい文明を全部取り入れなければ生きていけない、と国の指導者は切実な思いを抱いていた。しかし、航空機産業など軍事的利用に繋がる最先端技術の開発は占領国によって禁じられ、平和利用ならばと許された原子力の開発を通し世界の科学技術の先端に並ぶことができるというのは、国にとっても優秀な科学者(の卵)たちにとっても、まさに日本が一流の国家として国際社会に羽ばたく未来への大きな夢の架け橋であったのである。

 そうした「原子力を導入せよ」という時代から、時は次第に、「原子力で潤え」という時代へと移る。田中角栄の時代だ。この頃から、原子力は金になるという話が出てくる。利権が絡むようになるのだ。

 この番組を見て、「自立、自立」というのは、そういうわけだったのか、と合点がいった。原子力発電所そのものが自立したシステムとして存在するわけではなく、原子力を開発してきた動機や過程が、日本にとって戦後復興の歩みと重なり、世界に一流国家として躍り出て、敗戦によって打ちのめされた日本人のプライドと力を回復する、その象徴としての原子力エネルギーだったのだ、と思った。
 事故前に政府が進めていた原子力技術の輸出も、むろんビジネスとしての妙味もあるだろうけれど、技術立国として世界になくてはならない存在になり、日本の地位を確固としたものにするという国家政策なのだ。

 戦時中、電力は国家により独占、コントロールされてきた。それが戦後、分割され、国家と民間企業が手を携え、「国策民営」という形で電力を地方ごとに独占する体制を作り上げた。
 その体制を、今、菅内閣が見直そうと言っている。

 電力会社が、盛んに「安定供給、安定供給」とお題目のように唱えるのを訝しく思っていたが、これは電力を一元的にコントロールするということが如何に重要であるかということをアピールしているのだと気づく。私の子どもの頃はしょっちゅう停電があった。日本の経済を発展させるためには、国家が国策として民間企業を後押しし、電力の安定供給を絶対的な目標としてやってきたのかもしれない。でも時代は変わった。もっと民間の自由な競争や自立する力に任せてもいいんじゃないだろうか。エネルギー体制を大きく見直す転換期が来ている。

 いろいろ考えてみると、原発をめぐる状況というのは、歴史の中で熟成されてきたものであって、確かに私の父の言うように、反対反対と言うだけでは、到底解決できないようにも思う。
 掘り起こしてみると、根っこにあるのは明るい日本の未来を支える神話への信仰である。信仰は理屈ではない。信仰は絶対であって、「やるのがいいのか、悪いのか」という疑問は排除される。
 神話の種を植えたのは戦後の政治家たちであり、光を与え水をやり肥料を与えたのが、その後の利権者だったり、交付金によって潤う地元だったり、核武装への夢を投影した愛国者だったり、天下りの高給取りだったり、様々な立場で様々な思惑を抱えた人々であった。
 大樹の根は、戦後の意識や体制の中でしっかりと息づいている。ここを掘り起こして考えなおさないと、根本からの転換はできないのではないだろうか。



 
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